本日のツイート

ザコシなのにネタ構成が丁寧で何度も見てしまう。

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自己紹介→歌(銀河鉄道99ED)→サビの終わりにファルセットで叫ぶ→汽笛だと言って舞台に引っ込む→OPテーマに合わせて鉄道の模型で登場(OP映像再現…実はゴダイゴによるテーマは映画版主題歌でアニメ版OPではない)→股間に当てて「イッちまいそうですわ(オチ)」までに客の意識を途切れさせず繋ぐ構成がDJの曲つなぎのようでカッコイイのだ。

この展開する際に切れ目を見せないDJ的構成はストーリーテリングに重要な気がしてならない。

 

2020年の記事だが自分のTwitterに対する不信感の理由がほぼこの記事に語られている。Twitterはコミュニケーションツールの側面が強すぎて時にそれが暴走を招くと言った具合だ。

 

theeigadiary.hatenablog.com

>コミュニケーションに「得点」を課してしまうTwitterというメディアにおいては、構造的に不可避の問題である。つまり、ユーザーの誰しもが「うまいこと言ってやろう」という欲にとらわれる可能性があり、そしていちど「うまいこと言ってやろう」と思い出したらそこから逃げるのはかなり困難(後略)

witterをやるうえで最も自分を阻害するのはこの「うまいことを言ってやろう」という欲だ。これをなくすために自分は絶対に鍵を開けない。今いる相互の人のみに伝わればいいという思いでツイートをしている。
そうでないと自身の分析や価値観が曇ってしまうのだ。

まあ、自分もまた「僕の心のヤバい奴」を読んだ後は多くの読者と同じく読後感を大げさに表現するツイートをしてしまうので人のことを言える立場ではないのだが、それでもその行為はほどほどにしておくのが良い、というくらいなら発言してもいいだろう。

「うまいことを言ってやろう」という欲に囚われすぎたTwitter民を見ると、ネタバレだがミッドサマーのラストで燃える三角の小屋を見ながら我が一番上手く嘆けるのだと言わんばかりに苦痛に呻くモノマネをする信者たちを思い出す。それをやること自体を否定はしないが、自分はなるべくはしない(了)

 

シン・ウルトラマンについて。本編を観た時の不満の一つとして斎藤工演じるウルトラマンの優雅な挙動に対し戦闘シーンが泥臭く同一人物に見えないという点があった。初代ウルトラマンの戦い方のトレースという点やある種のギャップを狙ったとしてもあまり納得いかなかったが、思えば格闘技やプロレスの選手は会見等ではクールな姿を見せてもいざ試合となれば命懸けの場でなりふり構わない闘志を見せるわけで、その意味では怪獣という危険な存在と戦う時のウルトラマンの解釈として、普段の素朴かつクールなウルトラマンが戦う時は必死に泥臭くなるというのは正しいのかもしれない。
余談だが女子プロレス団体のSTARDOMの試合を見ると、アイドル級の美人の選手が入場時までは笑顔を振りまく可愛い姿でありながら、いざ試合となると髪を振り乱し鬼の形相でコノヤローオラァと叫び戦う。シンウルトラマンもまたこういうことなのかもしれない(了)

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